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主题:【原创】士兵证言:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 上 -- flyingcatgm

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家园 【原创】士兵证言:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 上

这是NHK的纪录片《士兵证言》系列中的一集,里面有当年110师团163联队老兵对当年与八路军艰苦作战的描述,有对日军的暴行的坦白,有对战争的检讨与忏悔。在此试着翻译出来,供大家参考:

1937年,中日全面战争爆发。这场战争中,一支日军部队进行了长达七年的作战。它就是在岛根县松江市编成的第163步兵联队,其被赋予维持日军占领下广大地域治安的任务,具体内容是扫荡中国北部华北平原上的抗日活跃势力,进行宣传工作,使当地居民接受日本的统治。

(士兵)“那里的名义就是保持大东亚的秩序。当时的秩序是动荡混乱,所以我们被告知这是一场不仅仅保卫中国,也是保卫国内,大东亚秩序的圣战。”

阻碍日军实施占领政策的是正在华北扩展势力的中国共产党军队,八路军。八路军的士兵们穿着和居民同样的服装进入农村,顽强地对日军进行反复地攻击。

(军官)“八路军啊,那是神出鬼没。他们穿的是便衣,我们一追他们就跑,和普通居民混成一片。八路军的游击战法太让我们头痛了。”

日军尽管装备占优,却被八路军巧妙的游击战术玩弄于股掌之间。他们面前到底谁是士兵,谁是平民?

(士兵)“和敌人遭遇的时候,我们也要生存,也要取胜。战场上就算有平民,因为分不清军民,就算他们是平民我们也打。谁叫他们在敌人那边呢”

八路军通过地下的通路来移动,持续对日军进行出其不意的打击。陷于苦战的日军开始使用某种武器,那就是赤筒(毒瓦斯),它能够导致剧烈呕吐,某些场合下可以致死。日军屡屡对八路军所潜伏的地道使用该种武器。

 日军在不晓敌人到底潜伏于何处的状态下,与游击队进行着日趋激烈的战斗。

“士兵们的战争证言”系列,本集通过岛根步兵第163联队原官兵的证言,来揭示这场发生在中国大陆,尚不为人知的反游击战的实态

 标题:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 ~岛根县步兵第163联队~

1938年6月,中日战争爆发一年后,松江市内收到征兵令的人们先后集合起来。拥有3300名官兵的步兵第163联队,是为了维持中国境内广大占领地区的治安而被编成的。中老年男子或者在征兵检查中被判断为体力低劣的人员也在其征收范围之内。

 (原步兵 山本实(95岁))“庙里的小和尚啊,木匠啊,混黑社会的啊,被送进兵营里的啥人都有,真是乱七八糟啊”

(原步兵 儿玉积(97岁))“大家都有职业,还有的是农民。都是嘟囔着‘没招啊‘走进兵营的”

(原步兵中队 中队长 胜浦良夫 )“当时的社会风气就是这样,进了部队就有可能战死,但为了国家也没什么怨言。所以大家都是尽力的”

1937年7月,中日战争爆发,日军以蒋介石所领导的中国国民政府为作战对象,凭借远超对方的战斗力,从战争一开始就连战连胜。然而占领地域的迅速扩大也给日军带来了巨大的问题,由于兵力不足,日军仅能维持对城市与交通线的控制,也就是说只能控制点和线。第163联队所在的华北平原与日本列岛面积相当。该部队担任铁路(纵贯北京南部粮仓地带)和周边村落的警卫任务。门肋志郎在被征入伍前一直在京都的商店工作,其所在的中队二百人要承担与相当于东京23区相同面积的地域控制任务。

(原步兵 门肋志郎 (94岁))“面积好大啊,我的感想就是这个。不管联队在哪儿,感觉都是好大啊”

(原步兵 来海忠满 (93岁))“中国居民都来讨好,“太君,太君”地叫着凑过来。他们要是不讨好我们的话,当然会吃亏的哟。”

 毛泽东率领的中国共产党在163联队的警备地域不断扩展势力.当时, 与国民党联手的共产党主要在华北对日军开展游击战.其八路军在华北平原邻近的山岳地带建立根据地,伺机进入平原地带,反复对日军进行奇袭和破坏行动。开战半年后,为了对抗势力不断增强的共产党,华北的日军部队就收到消灭共产党游击队的命令:“对共匪应彻底扫荡”!日军开始建立全面的监视体系,以阻拦试图进入占领地域的八路军。

在华北平原全域,每隔四公里就建造坚固的监视塔兼防御阵地(即炮楼)。伊藤利春就指挥过这种工事的建设。炮楼周围的居民的田地被没收,并作为劳动力而被驱使参加建设工作。

(原伍长 伊藤利春(90岁))“当时的作战大体就是建炮楼和修道路,主要目的就是建军用道路,每隔四,五千米就建一个炮楼。道路都是一条直线,周围非常开阔。我们是不在乎农民们有什么意见的,就是建一条笔直的道路并对其进行警备。”

然而,对八路军的扫荡是极为困难的任务。八路军秘密潜入农村,混入居民中进行活动。

(原步兵 儿玉积)“他们和农民一模一样,就算(在眼皮下)逃出,我们也根本看不出来”

(原163联队副官 原少佐 木村喜义(99岁))“八路军是神出鬼没啊。来的时候穿着便衣,我军追击他们就逃走,和普通的平民混在一起,我们也没招啊”

在八路军所潜伏的村落里,其为了争取住民而进行各种各样的宣传工作。他们和农民一起劳动,许诺减轻农民负担。因此,表面服从日军的居民却秘密参加了八路军的民兵。

(原步兵 石川行雄(92))“日军进村子的话,有专门负责招待日军的村长出面,八路军来了的话,就有专门负责招待八路军的村长出面,那些村子也挺有办法的。”

(原步兵 来海忠满 (93))“居民的小孩全都向着八路军。表面上对我们的态度挺好,却不知道他们心里怎么想的。嗯,真的看不出来,所以我也常常暗自琢磨‘他们在背后到底想的是什么呢‘?”

据日本方面的估计,开战半年后,在日占区居民中,支持中共,加入八路军的民兵的人数高达三十万。伪装成居民模样的士兵迅速增加,将日军玩弄于股掌之间。八路军及民兵的奇袭是接连不断地发生。

(原163联队副官 原少佐 木村喜义)“日军出动大部队,他们就撤退。如果留下小部队,他们就袭击,这就是八路军的游击战法,我们真是受够了。所以,小部队的牺牲者越发增加”

少量兵力的警备部队尤其是八路军的重点目标。来海忠满所属的百人部队就遭到过两千名八路军的袭击。

(原步兵 来海忠满)“当时敌人已经把我们包围了。那是个山头。敌人就躲在山影处伺机把我们包围起来,紧接着是弹如雨下。哎呀,当时就觉得今天真要完了。那时我们有三挺轻机枪,还有两个掷弹筒,就是那种抛射手榴弹,跟玩具差不多的小炮。还有一门山炮,山炮就轰轰直打,敌人总算撤走了。当时我们一个小队战死了一半。我也负了伤。就没有一个人是没受伤的。”

当时的联队副官 木村喜义为了与游击战对抗而到处奔走。

(原163联队副官 原少佐 木村喜义)“我这一百年的人生里,就没有像那段日子里那样废寝忘食,四处奔忙过“

 

日军采取的对策是所谓的“囚笼作战”,通过大规模建设深深的封锁沟来妨碍八路军的行动。

(木村喜义)“封锁沟宽四米,完全超出中国的梯子的长度。深三米,让他们上不来。每天要动员封锁沟沿线居民两千至三千的人力来挖沟。”

日军通过封锁沟将炮楼一个个联结起来,华北平原上这些深达三米的大沟如同蜘蛛网一样向东西南北远远地扩展开来

(元伍长 伊东利春)“非常辛苦啊。当时将其称为‘第二长城‘,就是说仅次于万里长城的大工程来大干特干的。”

1940年8月,八路军发动百团大战,中国方面声称这场战斗力歼灭日军两万以上。而日军为了报复也频繁进行大规模的扫荡作战。华北治安战更加激烈起来。来海忠满的四年军队生活几乎都是在炮楼中度过的。他的战友在和八路军的作战中一个又一个地战死。

(来海忠满)“哎,战友又被八路军打死了。出发前还和我说话的人,回来时已经沉默下去――――仅作为一具尸体被收容回来了。‘下次一定要报仇‘,当时就是这种心情”

(原步兵 门肋志良(94岁))“我对八路军没有好感。战友都死在他们手里。我实在对他们好感不起来。”

在死伤迭出的形势下,日军也动员数万兵力实施讨伐作战,试图打击位于山地的八路军根据地。然而,在情报能力高超的八路军指挥下,各个村庄里连居民的影子都看不见。日军在无人的村落中即使是食物也无法获得。

(原步兵 山本实)“战斗时经常进入无人村,在中国的民居里过夜。可是什么吃的也没有。稗子呀,小米呀,玉米呀,怎么也想弄点。可是中国人也知道,日军要是来的话,自己珍贵的猪,鸡等财产都要被不客气的杀了吃掉――――我们就是这么干的。所以他们一知道日军要来就立刻撤走,把所有的食物都带走。”

(原机关枪中队 中队长 平尾克己)“进入敌占区的时候总要抢些粮食,或把碍事的,可能作为据点的房屋烧掉。这种事情是要作的。因为和敌人作战时,对方有掩体的话我们就难以攻击。进攻的时候,对面房屋的二楼或者树木都可能造成麻烦,所以就要烧掉,砍掉。这都是没办法的事。”

(原伍长 伊东利春) “进入村子里就要彻底的破坏。现在想日军干这种事好吗?但为了不让居民有居处,不让八路军有居处,就要全部破坏后才撤走。在山地的作战就是毁灭一切。”

八路军将根据地设于山岳地带,然后向日军控制下的平原地带的村落秘密扩充势力。

(原伍长 伊东利春)“我们有三个人在炮楼旁边的村子里就遇到袭击,其中一个人在不到五或十分钟的时间里就死了。当时我们非常恨那里的居民,因为死了一个自己人么。就有意见说‘把那个村子烧了吧‘,是情报担当的部门去烧的。”

(原步兵中队 中队长胜浦良夫)“唉,遭到袭击后就要进行报复,汽车在一个村子受到袭击,我们就去那个村子放火,烧房子。

战争状态下是不能用普通的常理去衡量的。当时我们的感情就是这样。可能我们确实在中国作了坏事,但也是有相应的理由的。”

(原步兵 山本实)“那时候,有一个也不知道是真是假的间谍,部队长就砍下他的头挂在村口。就这样向中国人宣示日军的残酷可怕,告诉中国的农民不要小瞧我们。”

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家园 附日文原文

附我自己边听边记的日文原文如下,供大家一起参考,个人听译错误难免,如有指正,多谢多谢:

 昭和12年に始まった日本と中国の全面戦争、日中戦争、この戦いに7年の長きにわたり、投入された部隊があります。島根県松江(まつえ)市で編成された歩兵第163連隊、部隊に課された任務は日本軍が占領した広大な地域の治安を維持したことでした。

 中国北部に広がる華北平原、兵士たちはここで活動する抗日勢力を掃討(そうとう)し、宣伝工作を行って住民に日本の支配を受け入れさせようとしていました。

 「大東亜の秩序を保つためだ。東亜だいねんとかという、そういう名目をやったんだ。だからもう乱れ、ゆだれているから、中国はもちろんね、国内、大東亜の秩序をたもるための聖戦やいわれたんだ。」

 兵士たちが担った占領政策、その前に立ちはだかったのが華北に勢力を広げていた中国共産党の軍隊、八路軍でした。八路軍の兵士は住民と同じ服装をして農村に入り込み、日本軍に執拗(しつよう)な攻撃を繰り返していました。

 「八路軍というのはね、神出鬼没、これで、着ているのは便衣(べんい)でしょう、追いかけると逃げるのよ。これで一般の住民と一緒にやっとうでしょう。八路軍のゲリラ戦法、これにはもう手子摺り(てごすり)ました。」 

 装備では勝るものの、巧妙な八路軍のゲリラ戦に翻弄された日本軍、誰が兵士で、誰が住民なのか、

 「敵と遭遇した場合、こちらは生きなきゃ勝たなきゃいかんな、そこ(戦場)に住民がおった場合は、おってもだな、それが敵か本当の住民かわからない場合がある。住民がおっても打つ場合があるわ。弾、敵のほうにおるわけだからね。」

 八路軍は地下に張りめぐされた通路を移動し、日本軍の不意を衝く攻撃を繰り返しました。苦戦を強いられた日本軍はやがてある兵器を使用するようになります。毒ガス兵器、赤筒(あかとう)です。そのガスは激しい吐き気を引き起こし、場合では死にいたることもあります。日本軍は八路軍がこもる地下道にたびたびこの兵器を使用しました。

 「私らもやった。やったけどのう、それは、その、この土の下ずっと通路になっているから、穴を掘って、それをやつら、穴からワーワーするもんだから、赤筒放り込むでしょう。赤筒はガスだからね。」

 「あのときに、戦争のもというたら、恐ろしさでもないけども、えげつないだなと思いましたね。」

 どこに敵が潜むかわからない中で、激しさを増していたゲリラとの戦い、シリーズ「証言記録、兵士たちの戦争」、島根歩兵第163連隊の元将兵の証言から中国大陸での知られざるゲリラ掃討戦の実態に迫ります。

 日中戦闘が始まって一年後の昭和13年6月、松江市内には召集を受けた人々が次々と集まっていました。中国で獲得した占領地の治安を維持するために編成された歩兵第163連隊、3300名の将兵です。広大な占領地を警備するには大量の兵員が必要でした。163連隊には兵士としては高齢な中高年の男性や徴兵検査で体力に劣ると判断された人たちも招集されていました。

 (元歩兵 山本実さん(95))「お寺の坊さんから、大工(だいく)やら、やくざみたいな男やらも、いろんな雑多なものが兵営にぶち込まれ、何にもごちゃ混ぜみたいな状態です。」

 (元歩兵 児玉積さん(97))「みんな、それぞれ職業を持っておりますし、農家の人もいましたから、みんなでワヤワヤ行って、「しようがないのう」といって」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫(かつうらよしお))「兵隊にいけるのも、あるいは戦闘で死ぬかもわからんけれども、国のために尽くせるのは文句はないの。そういう時代だったと思います、だから、みんな、やっぱり一生懸命でしたね。」

 昭和12年7月、蒋介石率いる中国国民政府を相手に始まった日中戦争、戦力に勝る日本軍は開戦当初から連戦連勝を重ねます、しかし、急速に拡大する占領地が日本軍に大きな問題をもたらしました。兵力が足りないため、都市部と輸送路だけを維持するいわゆる点と線の支配しかできなかったのです。163連隊が投入された華北平原は日本列島とほぼ同じ面積です。部隊は北京南部の穀倉地帯を走る鉄道と周辺集落の警備を担いました。召集されるまで、京都の油然問屋に勤めていた門脇(かどわき)志郎さん、中隊200人で東京23区に相当する広さを担当するよう命じられました。

 (元歩兵 門脇志郎さん(94))「とてもじゃないが、広いわ。感想というのも、ただそれだけです。さあ、ひろい、とっと、連隊がちょっとちぐらい行ったって、とてもじゃないか、広いですよ。」

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「(住民は)心安かったですよ。「大人、大人」と寄ってきました。向こうもわれわれの機嫌を取らんと、えらい目にあうでしょう。」

 163連隊の警備地域に勢力を広げていたのが毛沢東を率いる中国共産党でした。当時、共産党は国民党と手を結び、主に華北地方で日本軍に対するゲリラ戦を展開していました。中国共産党八路軍は華北平原に接する山岳地帯に根拠地(こんきょち)を置いていました。そして機を見ては平野部に進出し、日本軍に対する奇襲攻撃や破壊工作を繰り返しました。勢力を強める共産党に対抗するため、開戦から半年後、日本軍は華北に展開する部隊に命令を発します:「共匪はこれを徹底的に掃蕩(そうとう)す」、共産党ゲリラの排除を命じたのです。占領地に入り込もうとする八路軍に対し、徹底した監視体制を築きます。

 防御陣地をかねた堅固な監視塔を華北平原全域に渡って4キロおきに建設しました。建設を指揮していた伊藤利春さんです。監視塔周辺の住民は田畑を接収され、さらに労働力として動員されたといいます。

 (元 伍長 伊藤利春さん(90))「そのときの作戦は大体のトーチかを建てるのと、あのう、道路を作るのが、軍用道路を作るのが大きな目的だったわけです。4キロ、5キロぐらいにトーチかを作りましたね。それも直線に、向こうは広いし、まあ、農民がどういおうと問題ないので、一直線(いっちょくせん)の道路をつけてそこで警備したわけです。」

 しかし、八路軍の掃蕩はきわめて困難な任務でした。ひそかに農村に潜入し、住民にまぎれて活動を行っていたからです。

 (元歩兵 児玉積)「農民と同じような格好をしてますからね、それだからわかりません、逃げてもね」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「八路軍というのはね、神出鬼没、来ているのは便衣でしょう、追いかけると逃げるわよ、一般の住民と一緒にやっているでしょう、これにはもう参りましたわ。」

 八路軍は潜入した集落で、住民を味方につけるためのさまざまな宣伝工作を行っていました。農民たちとともに農作業を行い、税金を軽減することを約束しました。それによって、表向きは日本軍に従っていた住民もひそかに民兵として八路軍に参加していました。

 (元歩兵 石川 行雄さん(92))「日本軍が(集落へ)行ったら、日本軍の専用の村長が出てくるし、八路軍が来たら、八路軍専用の村長が出てきて話をして、それで集落がうまいこと持っていたわけですなあ。」

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「住民の子供はみんな八路軍に取られていたわけ、人付き合いはいいけど、腹の中は見せらんだけ、うん、みせらんだけどね、だけど、「裏で何を考えているのかな」ということは、常に思っていましたな、」

 日本側の分析では開戦の半年後、共産党を支持して八路軍の民兵となった占領地域の住民は30万人に上りました。急速に増える住民を装った兵士に、日本軍は翻弄されていきます。民兵を動員した八路軍の奇襲が続発したのです。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「日本軍が大部隊で行きますと、逃げちゃって、そして、小さな部隊を残すと、襲撃。八路軍のゲリラ戦法、これにはもうてこずりました。だから、小さな部隊の犠牲者は多くなりました。」

 特に、小人数の警備部隊が八路軍の標的になりました。来海忠満さんが所属していた百名の部隊も2000名の八路軍の襲撃を受けました。

(元歩兵 来海 忠満さん(93))「もうすでに、敵はわれわれを包囲し取ったです。山ですから、山の陰から様子を見てわれわれを囲んだ。そうしたらもう雨とあられと撃ってきましたな。いやあ、今日はだめだ。そのときに、われわれは軽機(関銃)という兵器が三丁と、擲弾筒といって手榴弾をポーンとする一つ、おもちゃみたいな砲ですわな、擲弾筒、それが二つあった。それから、山砲が一門配備されましたけど、山砲もどんどん打ちますけど、敵はいい具合によけますな。そのときに、一個小隊で半分は戦死しましたな。私も負傷したし、満足なものは一人もいなかったな。」

 当時連隊副官だった木村喜義さんはゲリラ戦に対抗するために、奔走していました。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「この100年の人生で、あのときぐらい、本当に寝食(しんしょく)を忘れ活動したことは、私はないと思います。」

 取り組んでいたのは囚籠(しゅうろう)作戦です。遮断壕と呼ばれる深い溝を広範囲に建設し、八路軍の移動を妨害しようとしたのです。

 (木村喜義)「(遮断壕の)幅は4メートル、中国のはしごの幅はいっぱいいっぱい、深さは3メートル、これは陣形を作っても上がらないということを想定して、毎日、沿線の住民をまあ、2千人から3千人らしい(動員して)やりました。」

 監視塔の一つ一つを結ぶように掘り進められた遮断壕、東西南北それぞれ500メートルに及ぶ華北平原の全域に深さ3メートルの溝が蜘蛛の巣のように張り巡らされた。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「なかなか大変ですからね、それは「第2の長城」だと、万里の長城に次ぐものだというぐらいな意気こんでやるということでほったんですけどね、」

 昭和15年8月、八路軍は百団大戦と呼ばれる反撃を行います。中国側はこの戦いで、日本軍に2万を超える兵力の損失を与えたと発表しました。一方、日本軍もこれに対抗して、大規模な掃討作戦を繰り返します。以後、華北の治安戦は激化(げっか)の一途をたどりました。四年間の軍隊生活のほとんどを監視塔の警備ですごしていた来海忠満(きまちただみち)さんです。戦友は八路軍との戦いの中で、一人、また一人と戦死していきました。

 (来海忠満)「なーに、こいつー という、戦友が(八路軍に)やられていくんです、話して、出かけて戦友が、帰るときにね、無言で帰るんです。死体を収容して帰るだけ。「今度こそはやっつけてやる」という気持ちはあるけどね、」

 (元歩兵 門脇 志郎さん(94))「いい感情は持っていませんわ、八路軍に対してはね、戦友は殺されたんですから、いい感情を持つわけがありませんわ。」

 犠牲者が増え続ける中、日本軍は山岳地帯にあった八路軍の本拠地を叩こうとします。数万の兵力を動員して行われた討伐(とうばつ)作戦、しかし、諜報(ちょうほう)能力に勝る八路軍の村々(むらむら)では、住民の姿まで消え失せ(うせ)ていました。日本軍は無人と化し(かし)た集落で、食料を調達したことすらできませんでした。

 (元歩兵 山本実さん(95))「戦闘でよく(無人の集落に)入って中国人の民家で泊まるんですがね、何もない、食うものといったら、稗(ひえ)とか、粟(あわ)とかね、唐黍(とうきび)とか、あんなのをするとかね、何とかしてね、だから、日本軍が入ってきたら、豚や鶏や、向こうが珍重(ちんちょう)にしているものを、えしゃくなく殺して食うでしょう、われわれは、そういうようにするものだから、中国人の、まあ、あのう、向こうの人民は、日本軍がそろそろきたなと退い(しりぞい)てしまう、ものは食べるものなら、みんなも、大事なものを持っていくからね、」

 (元 機関銃中隊 中隊長 平尾克己さん(91))「敵のところに入ったときは、多少、食糧を取ったり、あるいは根拠になる、邪魔になる家は焼いたりと、ということは、これしていると思います。

 敵と戦争をするときにね、遮蔽物(しゃへいぶつ)があると攻撃もできん、こっちも隠れたるものもあるし、攻撃するときに、その家の二階が邪魔になるとか、木が邪魔になるとか、いうようなときには、やむを得ず一部ね、焼いたりきったりするということはあったですね。これは仕方がないです。」

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「(集落に)入ったときにはもう徹底的に破壊しちゃうんですよ、日本軍もこんなことしてもいいのかなと思う。とにかく住民が住めないように、八路軍が住めないように全部破壊して帰ってるんですよ。山の(そうとう)作戦も全部打ち壊し、」

 山岳地帯に本拠地を置く八路軍は日本軍の支配下にあった平野部の村々でもひそかに勢力を広げていました。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「トーチカの隣の村から襲撃を食いましたね。向こう3人来たうちの一人は即死でした。それはものの5分も10分もないぐらいでね。そんなときはもう向こうの住民にね、腹が立ちましてね、一人犠牲が出ているから。「その村を焼き払ってしまえ」という意見も出て、情報担当のあれが焼いたことがあるんですけどね、」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫さん(91))「まあ、そこでやられたとか言う場合には、報復的にやる場合があるわけ、バスが襲撃されたとなって(襲撃を受けた)集落へ行ったら、やられた何が言って、やっぱり火をつけるときもあるんでしょ、家を焼くときもな、

 戦争になったら、普通の常識では考えられないことがあるということです。そのときの感情でね、もう、すると、やっぱり、中国でも悪いことをしたことがあるかもわからん、けれども、それはそれなりの理由があるわけです。」

 (元歩兵 山本実さん(95))「あの時、スパイか、本人はどうか知らないけど、(部隊長がスパイの)首を切ってね、村の入り口へおいておく、ずっと、向こうに日本軍が残酷だったか、恐れるか。向こうの農民をね、なめるなというか、そういうこと」

家园 日本人的思维逻辑很奇怪,似乎都是大堂不亮的类型啊,看这段

(原步兵中队 中队长胜浦良夫)“唉,遭到袭击后就要进行报复,汽车在一个村子受到袭击,我们就去那个村子放火,烧房子。

战争状态下是不能用普通的常理去衡量的。当时我们的感情就是这样。可能我们确实在中国作了坏事,但也是有相应的理由的。”

家园 战争期间确实有很多事情不好用平视的眼光看待

莫泊桑笔下的德国占领军的行径也和日本人自称的差不多:“以牙还牙,以血还血”

但像日本人这样还没打仗就把人房子给拆/烧了的“防患于未然”精神以及杀人取乐的还是不怎么记得读到过

家园 士兵证言:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 下

日军试图用暴力与恐怖来迫使居民接受统治,然而,这只能使居民更加反抗日军。

(原163联队副官 原少佐 木村喜义)“中国人会怎么看待日军?让我说的话,日军在侵略战争中杀了他们的父母,兄弟,烧了他们的家园,这是什么行为?八路军以此宣传‘日军是罪恶的‘来获得民心。日军呢,只会说‘我们不是这样的‘或者说‘这么干是为了你们好‘,给点火柴什么的小恩小惠,进行些宣传工作,这就能消除中国人的杀亲之仇么?能把他们拉到日军这边么?这是作战的失策啊!”

日中战争就这样在没有大的进展的情况下陷入持久状态。伊藤得春亲眼看到日军是怎样对八路军战俘施加禁忌的行为。

(伊藤利春)“抓到俘虏的话,当然是进行审讯,这时就会拷打。拷打后不能让他活着,放生可能会带来日后的祸害,所以就要杀掉灭口。在扫荡作战的前线不可能把俘虏送上法庭或是宪兵队,就得由前线部队直接处理。”

(原步兵中队 中队长 胜浦良夫)“伤员是不留的。大概有三十人左右吧,都是由初年兵进行刺杀训练了。‘啪‘的一下子,这也是训练的一种。这种事情是有的,当时什么想象不到的事情都会发生。”

昭和16年(1941年)12月,太平洋战争爆发,这给中国大陆长期以来的治安战带来巨大的影响。华北地域被视为后勤基地,提供必要的食品物资以支持日本与盟国的战争。因此日军下令集中全部力量进行反游击作战。昭和15年(1942年)5月,163联队也进行了部队创建以来最大规模的战斗。在当时归163联队指挥下的冈山县110联队的报告书里,声称该战造成中国军民300以上的死亡。战场是在华北平原的北瞳村,163联队得到情报称八路军的大部队正在该村集结。昭和15年(1942年)5月26日夜,以163联队为中心的讨伐队向北瞳村出发,于拂晓前将其包围,开始了激烈的枪战。

(元伍长 伊东利春)“那一仗敌人的抵抗相当激烈,我们无法接近。这样长时间的抵抗在平原作战中是很少见的。战斗从黎明开始,整个白天都是胶着状态,傍晚日落的时候,已经到了无论如何,就算全面突击也要彻底解决战斗的地步,于是到了晚上就开始了突击”

黄昏时分,士兵们向北瞳村一齐发动突击,然而,情况却出乎他们意料之外。

(伊东利春)“发动突击的时候,敌方的一个人影出没见到。他们抵抗得那么激烈,双方互射了整整一天后,敌人跑哪儿去了呢?最初的情报说过里面有地道,我们就推测他们是潜入地下了,于是彻底搜索其出入口。”

在日军冲锋之前,八路军和平民已经逃入通往邻村的地道,试图借此秘密撤离。

(原110联队步兵 大岛辉夫)“总之,地下挖得像蜂巢一般,不,不是蜂巢,就像是鼹鼠一样,到处挖着地洞,而且互相连接起来。我只能这么形容”

(原110联队小队长 小坂庄介)“我们最初感到惊疑,但知道他们是要通过地道逃走后,我们就向洞穴中投放被称为‘红筒‘的催泪瓦斯”

日军报告书上所记载的“小筒”,就是指毒瓦斯武器“红筒”。日军向北瞳村的各处地道口均投入红筒,以此将八路军和平民熏出。在战场上,红筒是通过催吐,催泪使敌人丧失抵抗能力的武器,通常不会致死。但大量吸入这种毒瓦斯会引起呼吸困难,在地道等密闭空间使用时便有可能导致死亡。

(原步兵 来海忠满)“红筒虽说只有遭遇敌人顽强抵抗时才会使用,但平时日军都是随身携带的。它是用竹筒制成的,非常轻便。别的小队可能使用过它,但我们自始至终始终没有用过。就是那么个竹筒。”

(原163联队副官 原少佐 木村喜义)“士兵们是非常辛苦的。携带的背囊里有三天的干粮,腰上挂着两枚手榴弹,还有红筒,还有铁锨。外加伪装网和120发子弹。这些是无论何时都必不可少的。”

当时,欧洲的诸多国家都签订了协议,禁止使用毒气,但日本没有参加该协议。

(原伍长 伊东利春)“当时的国际协议禁止使用毒气。我们虽然对此略有所闻,但并不清楚具体内容。为什么日军要带毒气呢,那是作为护身法宝来用的。比如陷入包围圈等生死关头时,在这种最坏的场合下,利用风向,我们绕到上风头,敌人处于下风头时,放出毒气,我们就可以趁机逃跑,我们的毒气就是为这种场合准备的。”

然而,在北瞳村,红筒的使用超出其原有的限制。士兵们在找出藏人地道的出入口后,就纷纷向里面投入红筒。

(原110连队步兵 大岛辉夫)“我们也这么干了。在地下有那么多地道,我们把洞挖出来,听见里面有人声就把红筒扔进去,红筒就是毒气了,接着就听地下传来咳,咳的声音。”

(110步兵连队的报告书)“地道里传来手榴弹的爆炸声,犹如阿鼻地狱的绝境”。当讨伐部队投入红筒后,地下就不断响起手榴弹的爆炸声与惨叫声。

(大岛辉夫)“传来爆炸声了,我们不是投入红筒了么,投进去后,他们就拉手榴弹自杀了。”

 当时的小队长小坂庄介目睹了中国人吸入毒气后爬上来的情景。

(原110联队 小队长 小坂庄介)“最先是哭叫着的女人和小孩,流着眼泪,打着喷嚏,鼻涕眼泪混在一起,那种状态简直无法形容。日军没想到瓦斯也能熏死人。”

讨伐队的扫荡一直持续到第二天,日军守在地道的出口处,将被毒气熏出的八路军士兵一个个刺死。

(原步兵 山本实)“这事想起来就让人反感。上司驱赶着没有经验的新兵说‘你们还不知道什么是战斗吧,守住出口,把八路军一个个都挑了‘。唉,怎么能这么作呢。”

(原110联队步兵 大岛辉夫)“太惨了,我们也觉得,所谓战争,就连这种事也要作得出来么?”

163联队的战史里,记载着当时指挥北瞳村战斗的队长的回忆。但其中并没有提到红筒,只是说“发现了几个出入口,通过翻译劝其投降却没有回应,天色近晚,无奈之下命令投入发烟筒。”

日军的报告书称八路军方面死者三百名。但中国方面的说法是死者数目从五百名到八百名。准确数字现在也不知道。

北瞳村之战后,太平洋战争局势急转直下,在强大的盟军面前,日军在太平洋诸岛上不断败退。因此中国大陆上的日军兵力多数被调动至南方战场。由于战局的迅速恶化,第163联队原先维持华北治安的任务被迫放弃,调动到自己从未接触过的新战场,在最前线进行军队与军队之间面对面的战斗。

1945年,平尾克己作为当时的中队长,指挥部队参与了长江北部老河口一带的战斗。他面对的敌人是得到美国武器弹药的援助,战斗力已有改善的中国国民党军。在优势火力的国民党军猛攻之下,163联队陷入了崩溃状态。

(原机关枪中队 中队长 平尾克己)“当时的局势窘迫到‘从现在开始子弹一发也补充不了’的地步了。就算你说‘没有子弹,武器损坏’,上面也只能命令‘用手头现有的武器和子弹防守’。粮食也几乎断绝了,食物也补充不上来。1945年的七至八月间,联队长也认为将要玉碎。大家都是束手无策,连子弹都没有,只能硬撑下去,就这样迎来了终战。”

1945年8月17日,联队接到了师团的停战命令,163联队所经历的中日战争就此结束。

( 原步兵 门肋志郎)“所谓士兵就是被操纵的道具,没有自己的思想,就算有,也会被无视的,一颗小小的棋子而已”

(原步兵 山本实) “现在想起那些作过的事情,只觉得战争是多么可恨。当时我们不知道战争的丑恶,战争是多么的空虚。太可怜了,死了那么多人。我们到底是为了什么而要扛着枪到中国大陆去啊。”

(原110联队步兵大岛辉夫)“我不记得军队的事情了,当时只想着回国”

(原伍长 伊东利春) “中国那么大的国土被蹂躏了多少年,中国人实在可怜,太可怜了.士兵们不是因为愿意才出发的,作为军人他们只能服从。日本兵也一样的,出征本身是没有办法的事。但中国的平民太遭罪了。”

(原163联队副官 原少佐 木村喜义):“直到战争结束,被牵制在华北的日军有二十四万,什么效果也没有,或者顶多一点点。治安丝毫没有好转,中国的民心不断团结起来。日本占领地区,只是被共产党军不断地侵蚀,扩大地盘而已。”

163联队的编成目的就是为了维持中国大陆广大的占领地域的治安,其战斗经历全部在中国大陆度过。1412名士兵丧失了生命,其半数是在治安战中死于八路军之手。

通宝推:老顽童,
家园 日文原文

 暴力と恐怖によって支配を受け入れさせようとした日本軍、しかし、そのことが日本軍から住民を離反させていきました。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「私に言わせるとね、どう思われますか、侵攻作戦で親や兄弟が殺されて家を焼かれて、ね、いいですか?八路軍はそれを利用して、民心を得ようと「日本軍が悪い」とやっている、日本軍は「そうじゃない」と「みんなのためにやっているんだ」といって、マッチとかちょっとした餌を与えてやってみても、親や兄弟が殺されたら恨み骨髄(こつずい)でそんなものは宣撫(せんぶ)工作や「お前たちあ、そこへ行け」と言ったって聞きますか?そこにわたし、作戦の間違いがあったと思う、いや、私の判断ですよ。」

 大きな成果がないまま長期化していく日中戦争、伊藤利春(としはる)さんは日本軍が禁じていら行為が八路軍の捕虜に行われるのを目(ま)の当たりにしました。

 (伊藤利春)「やっぱり捕虜になったらも、取調べするけど、その間には拷問(ごうもん)もあるし、拷問かけると生かしておくわけにはいかないから、殺してしまうと言うことですよね、生かしておくと後日(ごじつ)の災いになるから口封じにすると、そういうことはやっぱり(掃討作戦の)前線では裁判や憲兵隊に送ることができんから、前線のその部隊で処置しようと言うことじゃないかと思いますけどね、」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫)「負傷者がもうあかんというのがね、30人ぐらいいただろうね、これを初年兵に突(つ)かすんだ、バーっと行ってね、訓練の一つで、そういうこともしたことありますな。もう思わんいろんなことが起きてくる。」

 昭和16年12月、中国大陸で続く治安戦に大きな変化をもたらす事態が起こります。太平洋戦争が開戦したのです、華北地方は連合国との戦いを支える食料や資源の兵站基地とされます。日本軍の総力を結集(けっしゅう)したゲリラ掃討作戦が発令されました。昭和17年5月、163連隊も部隊創設以来、最大規模の戦闘を行います。163連隊の指揮下に入った岡山県の110連隊の報告書、兵士と住民を合わせた中国側の死者は300名に上ったと記されています。戦場となった華北平原北部の北担村、163連隊は情報活動を通じてこの村に、大規模な八路軍が集結しているという情報を得ます。昭和17年5月26日の夜、163連隊を中心とする討伐(とうばつ)隊は北担村へ向けて出発しました。夜明け前に北担村を包囲、激しい銃撃戦が始まります。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「その作戦では、ものすごく抵抗しても、近(ちか)寄れない状態でした。こういう作戦は平地の作戦ではめったにないんだと、敵がこんな長い時間抵抗するのはということだったんですけど、もう、普通夜明けからかかって、昼もどうにもならんと膠着(こうちゃく)状態で、晩になって日が暮れてしまうんだから、なんとしても突撃でもしてでも、今日の作戦を解決しなきゃいけないと言うことで、晩になってから突撃する格好になったんですが、」

 夕暮れ(ゆうぐれ)が迫る中、兵士たちは北担村の中心部に向かって一斉に突入しました。しかし、そこで思わぬ光景に遭遇します。

 (伊東利春)(突撃してみたら、ひとつきりも人影(ひとかげ)が見えないのです。あれだけ抵抗して一日撃ち合いしたのに、どこ行ってしまったんだろうと言うことで、当初からの情報で地下壕があるみたいだと言う情報があったんで、地下にもぐっているんじゃないかと言うことで、地下壕の入り口をそれから探した。徹底的探したわけです。)

 日本軍が突入する直前、八路軍と住民は地下壕に逃げ込んでいました。隣の集落まで続く地下壕を使い、ひそかに脱出しようとしたのです。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「要するに、下に穴を掘っているんだ。ずーっと、蜂の巣みたいに。蜂の巣じゃない、あれはモグラじゃな、モグラがおりましょう。あれみたいに、泥の中をあっちこっち穴掘って、掘って、下を通じよるんだから。もうそこから先は、私はもうよう言いません。」

 (元110連隊 小隊長 小坂庄介さん(90))「おかしいなということになって、壕を掘って逃げとんでちゃってとわかって、その間に、「赤筒」というくしゃみが出るガスが穴とおぼしきものに放り(ほうり)こんで、」

 日本軍の報告書に記された「小あ筒」という文字、毒ガス兵器、赤筒のことです。日本軍は北担村のいたるところにあった地下壕の入り口に赤筒を投げ入れ、八路軍や住民を燻り(いぶり)出そうとしたのです。吐き気やくしゃみを引き起こす赤筒は戦場で敵の戦意を奪うために使われるもので、通常は死をもたらすことはありません。しかし、赤筒から発生するジフェニルシアノアルシンというガスは大量に吸うと、呼吸困難を引き起こします。地下壕など閉鎖空間で使うと、死に至る可能性があります。

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「敵の抵抗が厳しかったときにはそれを使ったけど、そういうことは常に持っていました。竹の筒(つつ)、こういうものです。軽いものです。で、ほかの小隊にあったかもしれないけど、私たちははじめから終わりまで同じものを持ってましたな。竹の筒、このぐらいでね。このぐらいのものです。」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「兵隊はご苦労ですけどもね、ずのうがありましょう、袋が、これをかけとる、食料はね、三日分、手榴弾は腰に2発、赤筒を持っておる。えんび(シャベル)はもっておる。偽装網(ぎそうもう)はもっておる。それで、弾薬は120発。これはもう、どんなときも励行しました。」

 当時ヨーロッパなどの国々は毒ガス兵器の使用を禁ずるジュネーブ議定書の締約国となっていました。しかし、日本は批准(ひじゅん)していませんでした。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「まあ、毒ガスというのは、世界中の協定でガスは使わないと言うことになっとるんですね、でも、そんな協定はあるらしく思っていた。別に聞いたわけじゃないけど、だって、なんでガスを持っているんだろう、持たせるんだろうなと、それは護身用(ごしんよう)だと使う場合は、もう包囲されたとか何かいっても、自分たちの生死にかかわると、最悪(さいあく)の場合、風を利用して、風下に敵がいる場合、風上に回るとそれを使われると、そして逃げてかえって来いと、くると、いうことのために、それをもっているんだということですけど。」

 小隊長を務めていた小坂庄介さんは赤筒のガスを吸い込んだ人たちが這い上がってくる様子を目撃しました。

 (元110連隊 小隊長 小坂庄介さん(90))「一番ね、女や子供が泣きながら、涙を流して出てきて、くしゃみ、涙、ものもよく言えない状態、涙が出て、くしゃみして涙が出てですね、日本軍はガスによって、死ぬようなことは考えてなかったです。」

 しかし、北担村では赤筒は本来の目的を超えて使用されました。兵士たちは人々が逃げ込んだ地下壕の入り口を探し出しては次々と赤筒を投げ入れたのです。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「私らもやった。やったけどの、この土の下、ずっと通路になっているから、穴を掘って、それをやつら、穴からワーワーするものだから、赤筒を放り込むでしょ。赤筒と言うのはガスだからな、そうすれば、まあ、(地下から)ドカドカドカドカ」

 「坑道内は手榴弾の爆音、阿鼻叫喚(あびきょうかん)その極みに達す」(歩兵110連隊の報告書)。討伐部隊が赤筒を投げ入れた後、地下からは手榴弾の爆発音と絶叫(ぜっきょう)が響き渡ったとあります。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「音がしたよ、それは放り込んだからでしょう。放り込んだから、穴の中で自爆したんです。手榴弾で」

 討伐隊の掃蕩はさらに続きました。地下壕の出入り口が待ち構え、毒ガスから逃れてきた八路軍の兵士を刺し殺したのです。掃蕩は翌日まで及びました。

 (元歩兵 山本実 さん)「えげつない事だなと思いましたね。何も知らない新兵(しんぺい)が駆り(かり)出されてる。(上官が)「戦闘はお前らまだやったことないから、逃げ口をお前見張って、それをいちいち刺し殺せ」という。まあ、そんなことできなかったですよ。」

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「すごいことをやるなと思いましたよ。私らも、戦争と言うものはこんなことまでするのかと思った。」

 163連隊の部隊史には北担村の戦闘を指揮した隊長の回想が記録されています。しかし、そこでは赤筒と言う言葉は記されていません。「数箇所の出入り口を発見し、通訳を通じて降伏を勧告したが応じない、日没も短い、やむを得ず発煙筒の投入を下命(かめい)した。」

 日本軍の報告書によれば、八路軍側の死者は300名と記録されています。しかし、中国側では死者の数を500名から800名にしています。正確な数は現在もわかっていません。

 北担村の戦闘の後、太平洋戦争の状況は一変します。強大な連合軍を前に、太平洋の島々で敗北を重ねる日本軍、やがて、中国大陸の日本軍兵力はその多くが南方の戦場へ転用されていきました。華北の治安確立と言う163連隊の目的も急速に悪化する戦況の中で放棄されました。163連隊はまったく経験したことのない新たな戦場に動員されます。それは部隊と部隊がぶつかりあう最前線の戦いでした。

 昭和20年、平尾克己(かつみ)さんは中隊長として揚子江の北部老河口(ろうかこう)で行われた戦闘の指揮を取りました。このとき、平尾克己を待ち構えていたのはアメリカから武器、弾薬の援助を受けて、戦力を増した中国国民党の軍隊でした。火力に勝る中国軍の猛攻を受けた163連隊は壊滅状態に陥ります。

 (元 機関銃中隊 中隊長 平尾克己さん(91))「「もうこれからは弾は一切補給せん」とそういう余裕がないわけですから、「もう弾がない」といっても、兵器も壊れても、ない、「とにかく今持っている兵器と弾で防げ」と

 食糧もほとんどそのごろからなかったですからね、食料の補充もできぬ、昭和20年の7月から8月、玉砕、連隊長もそう思っていた。みんなが、ともかくここはもうどうしようもない。弾も何もない。だけど、「守っとれ」というようなことでね、あの、終戦を迎えたわけです。」

 昭和20年8月17日、師団からの停戦命令を受け、163連隊の日中戦争は終わりました。

 (元歩兵 門脇志郎さん(94))「兵隊と言うものは道具みたいなものです。自分の考えと言うものはないわけで、考えがあったって、そんなものは無視されてしまって、ただ、駒(こま)のようなものだね。」

 (元歩兵 山本実さん(95))「いまだったら、よくあんなことをしたと、戦争は憎い、そのときはわかりませんもん、私らでも、戦争ってこんなにむなしいものでね、哀れな、死人(しにん)はたくさん出てくる。なんのために、あの、向こうの大陸をね、(銃を)担い(にない)で」

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「もう軍隊のことは覚えてない、帰る事ばかり考えていた。」

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「中国はあのひどい国土を何年間も荒らされたんだから、もう、中国のあれはほんとう、気の毒なことをしたな、かわいそうなことだなと思う。軍隊にいる兵隊も好んで出たわけではないが、軍人は仕方がないわ。日本の兵隊も一緒だから、出た以上は仕方がないけど、住民は大変だろうと思ってますね。」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「(華北の日本軍)24万の軍隊が終戦まで釘付けになったでしょう。何も効果なし、まあ、すこしがあったろう、治安はひとつもよくならない。どんどんどんどんとも民心を集団して、共産党が日本が進駐軍が行った後、共産党軍がどんどんどんどん地盤(じばん)を作っただけ。」

 広大な中国大陸の治安維持のために編成された163連隊の兵士たち、その戦歴のすべてを中国大陸で重ねました。命を落としたのは1412名、その半数は八路軍と戦った治安戦によるものです。

家园 唉,杀的不够,杀的不够!
家园 但愿这刻骨的仇恨别被后代遗忘了。

无论如何,是日本子妄想征服一个民族,虽然那个民族积贫积弱。

在你身上深深地划一刀然后再一本正经地来研究你的伤口。

TG成功之处在于,他们组织起了被国家遗弃的一帮人,用一切不对等的战争手段,将民族的尊严延续了下来。

家园 纪录片里那些日军官兵的联队长上坂胜,曾在新中国法庭上忏悔

上坂胜曾任163联队大佐联队长。1945年8月20日,担任59师团53旅团少将旅团长的上坂胜在朝鲜被苏联红军逮捕,后来解送到中国。

他在新中国的军事法庭上作为战犯被起诉时,写有很多供词,可与纪录片对照。

1956年6月15日,上坂胜在法庭上进行的最后陈述:

我过去醉心于日本军国主义,充当日本帝国主义侵略中国的工具,给中国人民造成了严重灾难。特别是公开破坏国际公法,施放毒气,残暴地夺去了无数中国人民的生命,掠夺和破坏了中国人民的财产,陷中国人民涂炭生活的深渊。我就是这样一个有罪的人。我所犯下的罪行,比起诉书所提到的还要多,应该说是犯下了滔天的大罪。我过去的部下所犯下的那些残暴无比的罪行,也是我对他们进行教育训练或指挥命令的结果。他们所犯的罪行,完全是我的罪行,我应负全部责任。

我现在已经完全了解到中国人民为什么诅咒战争,为什么衷心要求和平,完全了解到中国人民是如何憎恨我的罪行。从河北省前来作证的被害人,前几天指着我说:“我咬你的肉,吸你的血,也不能解恨”。我认为这句话就是中国人民,尤其是被害者们以及被害者的亲人们,由内心发出的愤怒的声音。想到这一点,我便深刻地感到我献出几条命,也不能抵偿我的严重的罪行。我在此,在中国人民面前低头谢罪。不论我将受到什么样的惩罚,我都甘心服法。同时,我也彻底认识了战争的罪恶性。特别是随着人类智慧的发展,战争手段也越发残忍起来了。我认为使人类陷入不幸深渊的就是战争。我现在从心底里憎恨战争,必须坚决防止战争。另外,我从苏联解送到中国来以后,经过学习,才知道战争就是军国主义发动的。也知道了我犯下重大罪行的根源就是军国主义。因此,绝对不能允许日本军国主义复活起来。我生长在乡村,是一个农民的长子。我在三十多年的军人生活中究竟做了些什么事呢?没有做过一件对社会有益的事情,而我的所作所为,完全是阻碍人类社会发展的勾当。在过去很长的时间里,训练了日本军国主义的法西斯军队,向日本人民鼓吹了军国主义,强征他们参加战争。在这次的侵略中国的战争中,又由于追求名位与功勋的利己主义,犯下了这样重大的罪行,使中国人民遭受不可估量的灾难。

我这种人是早就应该被消灭的。但是,中国人民并没有抛弃我,到今天为止,在六年多的时间里,给我以宽厚待遇,教导我走上为正义而斗争的道路。特别是中国人民代表大会常务委员会的决定,对我们战犯的处理原则,给我们指出一条出路。并且在法庭审理我们的战争犯罪案件时,甚至指定辩护人,为我们进行辩护。我谨在这里,在中国人民面前;衷心感谢中国人民的宽大待遇。

家园 NHK的该系列中,还有几篇与中国战场有关,可惜无法入手

GOOGLE一下,发现有:

[証言記録 兵士たちの戦争]中国華北 占領地の治安戦 ~独立混成第4旅団~ http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210053_00000

[証言記録 兵士たちの戦争]中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県歩兵第34連隊~

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210012_00000

[証言記録 兵士たちの戦争]北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊 ~福岡県陸軍第18師団~

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210009_00000

[証言記録 兵士たちの戦争]中国雲南 玉砕来なかった援軍 ~福岡県陸軍第56師団~

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210024_00000

看简介,一部是华北与八路军作战的纪录,一部是一号作战打通大陆交通线的纪录,两部是缅甸与我远征军的作战纪录。

可惜看不到具体内容啊。

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